2011年3月30日水曜日

東電なにやってんだ



女川原発は避難所になってるそうだ。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110326/dst11032622340091-n1.htm

2011年3月27日日曜日

Tシャツ化


デナイアルのなかざわくんがつくってくれました・・

2011年3月23日水曜日

身捨つるほどの祖国はありや その3


家族の遺体と向き合うのはどんな気持ちがするだろうか。安否が取れない間、家族が寒い思いをしていないかずっと不安で心配だった。津波の被害にあった方は、行方不明になった家族や友達が冷たい思いをしていないか、ずっと不安だったと思う。どんな大災害が起こったとしても、心配するのはとても単純なことだ。寒くないか、おなかが空いてないか、痛い思いをしていないか。これまで、誰もが暖かいところで飢えずに生きているのが当然のことだったのに。

たった一瞬で世界が変わってしまった。予測できない、それまでの世界を変えてしまうできごとを「ブラックスワン」と呼ぶ。同時代で生きているとまったくピンとこない。しかし、わたしたちは新しい世界にワープしてしまった。ガンツやLOSTみたいなあれだ。過酷な現実が目の前にはだかり、どうすれば乗り越えられるのか検討もつかない。もし大切にしたい人がいて、その人も自分を必要としている幸運な方は、全力で守って下さい。いまこの場で家族をなくすことを想像するだけで身が切られるような思いがするのに、1万人以上の方が亡くなり、たくさんの人たちが凄まじい絶望に襲われながらも必死に生きようとしている。

【故郷】 
被災者を他県が受け入れるというニュースを見て、わたしの故郷が無くなるかもしれないと思った途端、理屈じゃない感情がこみ上げて来た。これまで、難民たちが、内紛の起こる自国に帰りたがる理由がまったくわからなかった。隙あらば国外脱出したい、と言って来たし、生まれ育った場所はただの地面だとずっと思っていた。しかし、実際に故郷が無くなるかもしれない、と突きつけられると、これはほんとうに堪え難い。

自宅が瓦礫になっても、地域が焼け野原になっても、放射能の被害があると言っても、そこを動かない人がいるという。今なら彼らの気持ちがわかる。故郷はただの地面だが、家族や友達の歴史と思い出が時間軸を交えて四次元的に漂っている。その場所こそが、わたしの故郷だ。


パノラマ写真

身捨つるほどの祖国はありや その2

どんなに悲惨な写真や映像を見ても、涙がどこかで詰まってしまって出ることがなかった。家族と電話連絡が取れない。確かめようがないのだ。わたしは彼らに何も恩返しできていないのに、これいじょう不幸にさせるなんてほんとうにやりきれない。仙台は吹雪になっているという。家族が避難所にいるのか、どこにいるのかわからない。家が倒壊したのだろうか、怪我はなかっただろうか、いま避難所にいるのだろうか、避難所は寒くて飢えることがないだろうか、暖かい場所で眠れているのだろうか。心配しても確かめようがないのでフィードバックノイズのようになる。

父方のおばあちゃんは足が悪い。家は木造だ。逃げ遅れたりしなかっただろうか。同級生は大丈夫だっただろうか。いとこは大丈夫だろうか。仙台に住む若王子、竹やん、キクチさん、松村さん、戸田さん、志保ティンとちょうさん、けんさん、しなちゃん、みんな大丈夫だろうか。気仙沼のかおりさんの家族、名取のほっしーの家族、岩沼のしょうへいさんの家族、相馬のつーくんの家族、ワンパクあべさんの家族、サエキックの家族、あぶみさんの家族、亘理のさちこ先生の家族、石巻のそうしくんの家族、みんな大丈夫だろうか。安否が気になる人の顔が次から次に浮かぶのに、どうやっても誰一人にも連絡が取れないことにいちいち気づいて焦燥する。海外のメディアに見覚えのある景色が掲載されている。NYタイムズに地元が掲載されるなんて。

スクールバスの残骸に閉じ込められた娘の死体を撫でる両親 (宮城県山元町) わたしはこの自動車学校に通っていた。このバスに乗っていた。

わたしが通っていた高校は、遺体安置所になっている。

死亡者のリストを見るのが恐ろしい。夜が恐い。その夜、カンタくんとイーザワミオが鍋で慰労してくれた。このとき、西友は白菜が切れているくらいで食料がまだ豊富にあった。みぞれきのこ肉団子鍋を食す。ネットじゃなくて紙で情報が見たくて、コンビニに新聞を買いにいったら東スポしかない。仕方がないので買う。まさか東スポを買う日が来るとは思わなかった。すさまじい被害が明らかになっていくなかで、東スポはえろい写真と「ゴルフのなんとかリョウ、平常心」「プロレス団体バスで被災。危機一髪」とかマイペースすぎるいつもの調子。泣きながら笑った。堀尾邸は震災の前となにも変わるとことなく暖かく、イーザワミオの高らかなバカ笑いが響き渡り、その夜だけはわれわれが何も心配することなく暮らしていた以前の世界に戻ったような気がした。

2011年3月22日火曜日

宮沢賢治「告別」

宮沢賢治が花巻農学校の教師だったころ、音楽の才能を持つ生徒(沢里武治)がいました。沢里は音楽教育を受けておらず、楽譜も読めませんでしたが、いちど聴いた曲をオルガンで弾く事ができました。いわゆる絶対音感の持ち主だったようです。賢治も彼の才能を高く評価していました。

しかし、沢里は農家の息子だったため、いつかは音楽の道を諦めなければならない運命でした。昔の農家では、家業を捨てることなど許されなかったのです。わたしの祖父も農家の長男だったため、合格した大学に進学することが許されず、泣いて諦めたといいます。

沢里が卒業する年、賢治は農耕自炊で生きるほんとうの百姓になるために、学校を辞める決意をします。退職の際、沢里と生徒たち、そして自分に向けて書いた詩が、この「告別」です。

賢治は沢里の才能を褒めつつも、「お前くらいの年齢の人間であれば、一万人のうち5人くらいはお前と同じくらいの才能があるだろう」と客観的に突き放します。自分が唯一無二でないと知ったうえで、うつろいやすい才能を自らにとどめる努力をしつづけることができるか?人が持つ才能というものに定量があるとしたら、その才能の火を最後まで消さないものが真の芸術家であるというのです。

もし愛する女性が出来たら、彼女に感じる愛の喜びや光を音にしてほしいと賢治は言っています。楽器がなければ想像の楽器を弾けば良い。きっとあたたかく喜びに満ちた音が鳴らされることでしょう。青空文庫より

  三八四  告別
一九二五、一〇、二五、

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた

もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに

おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管
とをとった

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

2011年3月21日月曜日

む〜

みんな幸せで楽しそうに見えるが、そもそも幸せとか楽しいとかってなんなんだろう

2011年3月17日木曜日

身捨つるほどの祖国はありや その1


【宮城県沖地震の記憶】
宮城県民なら、1978年6月12日に起こった宮城県沖地震のことを知らない人はいないだろう。午後5時に起こった震度5の地震は、ブロック塀の倒壊や、夕飯の準備をしていた家庭からの火災を引き起こした。2歳のわたしは、倒れた机の下敷きになってアキレス腱を痛めた。宮城県沖地震で奪われた命は28人。倒れたブロック塀の下敷きになって無くなる人が多かったので、以後、ブロック塀を作る際には鉄の棒を芯として入れるようになった。


わたしが小さい頃から「宮城県には将来絶対に大きな地震が来る」と言われていた。みなこの写真を見ておびえた。一階がまるごとつぶれてしまうなんて!小学校の夏休みには地震被害の本が課題図書となり、「中国では動物による地震予知が実用化されそうという噂があるので、ぜひ取り入れて欲しい」というようなことを書いた覚えがある。中学校になると不安はますます強まり、宮城県沖地震にて積水ハウスの家はパネルが取れた被害だけであった、という情報をどっかから聴いて来て実家の立て替えの際に積水ハウスにしてほしいとゴネまくった。

宮城県の避難訓練は、宮城県沖地震が起こった6月12日に行われる。毎年毎年、この地震がいかに悲惨だったかを繰り返し教えられた。地震で被害を受ける人が二度と出ないように注意しようと。しかし人は忘れる。15年前、神戸で阪神大震災が起こった。強烈だった。ニュースから流れる倒壊した家屋、割れた道路、倒れた高速道路の映像は地震の記憶を薄れさせるのに拍車をかけた。それから中国で、インドネシアで地震がおき、インドネシアでは津波が現地の家をさらっていった。どれも実感がわかないくらい遠くで起こった出来事だった。地震は天災で、他人事だった。

【地震当日】
2011年3月11日、M9.0の東北関東大震災が起こった。誰がこんなことになると予測しただろう。東京は震度5強の揺れで、わたしはアルバイト先のオフィスビルにいた。横揺れが次第に強くなり、机の下に隠れた。twitterで見かけた「3月9日の岩手の地震は関東大震災の前触れ。2、3日後に東京で大地震が来る」という噂を思い出し、これでもう終わりかもしれないと思った。揺れは長く、揺さぶられるようで車酔いのようになったが、止まった。命拾いしたと思った。macの隣に飲みかけのコーヒーを置いて来たことが気にかかった。震源地などの情報はすぐに入ってこなかった。余震が続くなか、周りの人は通常の業務を続けようとしていた。15分に一回くらいガタガタ揺れるのでまったく仕事にならないが、誰も手を止めない。日本はすごい国だ。

誰かが「震源地は宮城県らしい」と言う。信じられない気持ちになる。会議室にあるテレビを誰かが付けた。地震発生から30分経っていた。画面には宮城県名取市の田園に津波が押し寄せる映像が流れていた。それでもまだ信じられない。名取の風景を全国テレビで見るとは思わなかった。しかもこれまでにみたこともないような悲惨な映像で。叫びだしたい気持ちになったが、わたしにはどうにもできなかった。携帯電話はつながらなかった。街頭の公衆電話を利用するためにビルの外に出た。たくさんの人たちがコートを着て路上に出ていた。サイレンが鳴り響き、非常事態がアナウンスされている。空に大きな飛行機雲のようなものが見えて、ああ、飛行機が飛んでいたのか、と思う。

ビルの大理石がひび割れ、かけらが散乱していた。公衆電話の災害ダイヤルにかけると、わたしの自宅は緊急電話の範囲外だと言われる。家の電話は繋がらず、家族にメールをしても返信はない。わたしが泣いても叫んでも現地の状況が変わるわけではない。わたしには何もできない。私には何もできない。こうしている今も、家族が瓦礫の下敷きになって助けを呼んでいるかもしれない。重い柱につぶされ、気絶するほどの痛みと苦しみに襲われているかもしれない。東京にいるわたしには何ひとつできることがない。背中にぴったりと冷たい絶望みたいなものが貼り付く。タイタニックの楽団は沈む間も音楽を奏でたという。わたしには何もすることができない。

【東京駅】
そのまま6時になり業務が終わる。あんな地震でも、みんな業務を続けていたのだ。電車がすべて止まっているらしい、帰れる人は早く帰るようにという通達が入る。twitterで「東京駅にいる」と書いたところ、工場長こと柳澤君が東京駅のタクシー乗り場に並んでいるというので向かった。いすさんが「3331においで」と言ってくれたので、合流できたら歩いて一緒に3331に行こうと思った。

八重洲のタクシー乗り場に着いたところ、既に2000人くらいの人が並んでいた。テレビ局が取材をしている。若いディレクターのような男の人が、MacBookでその場で編集をしている。東京駅の端から端までタクシーの行列ができている。電話はつながらないのでtwitterしか連絡手段がない。大きい荷物を持っているだろうから、列に並んでいるはずと思い、何度も列を見てみるが見つけられない。今思うと、判断力がまったく失われていた。ただ呆然と歩き回って探した。twitterでは都心で凄まじい交通渋滞が起こっていると書かれており、タクシーに乗っても帰宅できるかわからない。一瞬「ここでやなぎさわくーーーん!!!と名前を叫べばいいのかも」と思うが、あまりにも整然と並ぶ人々の前で、パニックが起こったら困るとか考えてしまって叫ぶ勇気が出ない。東京駅の地下通路は帰れない人が座り込んでいる。戦後の写真でこういうのを見たな、と思う。和服のおばあさんが新聞紙の上に正座している。柳澤君から「キラピカ通りという看板の下にいます」という情報が入るが、それはストリートの名前なので名前の書いてある看板がいたるところにあってまったく手がかりにならない。

待ち合わせの鉄則はとにかく動かないことだ。このときわたしはやたらと歩き回らずに「銀のすずにいます」とスタティックな情報を出して動かずじっとしていればもしかしたら会う事が出来たかもしれない。この次に世界の終わりがやってきたらそうしよう。結局柳澤氏とは出会うことができず、二時間半も歩き回っている私を心配した毛利悠子さんが銀座で避難しているところに呼んでくれた。柳澤氏は地下鉄とバスと歩きで6時間くらいかけて帰宅したそうだ。弟が前日に始めたツイッターで「家族が全員無事らしい」というメッセージをくれた。このメッセージでほんとうに楽になった。しかしこの連絡を最後に、一週間電話が通じなくなる。

もうりさんに送ってもらった住所をマップで検索し、東銀座に歩いて向かう。銀座は落ち着いていて、いつもと同じようだ。コンビニには食べ物があり、コージーコーナーが普通に営業している。超高級ホテルのロビーに人々が足を投げ出して座り込んでいる。靴屋さんには女性が買い物している。歩いて帰るための靴を買っているんだろう。表参道あたりでは一時間で何メートルくらいしか進んでいないらしいが、銀座では車が流れているように見える。カラオケ屋が割高で営業しているが行列ができている。居酒屋は普通に営業しているところが多く、みな楽しそうにお酒を飲んでいる。

【銀座】 
銀座の事務所に着いたらみんなが出迎えてくれた。もーりさんがすごく心配してくれた。ゆいさんは年に一回のスーツを着る日がたまたま今日で、花粉症の薬を飲めないのでのびたくんがメガネを外した目みたいになっている。もーりさんは銀座の和光の交差点で地震を迎え、ビルがぐわんぐわん揺れてたのを見たそうだ。アップルのビルの屋上にあるのが落ちてこないかと不安だったという。

事務所で暖かいご飯とお風呂、パジャマとソファを貸してもらった。テレビでは凄惨な映像が流れている。夜中になって地下鉄が動いたという情報が流れたが、暗闇が恐ろしくてたまらない。ザッカリーから「きみの実家はセンダイだったように記憶しているが大丈夫か?」というメールが届く。なんていい人なんだ。地震予告のおそろしい音がテレビからひたすら鳴り響く。1時頃、皆で就寝。午前四時、全員が同時に目が覚めて、すぐに余震が来た。


【地震の翌日】 
翌朝通常通りになった地下鉄に乗った。銀座線も半蔵門線もスムーズに動いている。みな終夜運転をしたらしい。西友によって食品を買う。新鮮なくだものや野菜が豊富にある。このすぐ後に買い占めが始まり、棚から食物が消える。翌日の朝にはまだあった。家は鏡が倒れていたくらいで、マックにはコーヒーもかかっていなかった。インターネットを見始めると、もう止まらない。見慣れた景色の凄まじい惨状がインターネットにしぬほどある。これはなんだ?