2011年9月27日火曜日

文学

人間には魂というものがある。
根源的に持っているものだ。

だけど、社会の前では魂を持っていることは暗黙的に抹殺される。みな夜になると寝て、朝になると起きて服をきて会社とかに行く。

社会というでっかいプラットフォームにおいて、個人の魂は黙殺される。黙殺されるのが前提でみんな生きている。そのほうがいろいろよく回って効率がいいからだ。全人類が魂の叫びをしだしたら収集がつかない。だからすました顔をしてメールや電話や会議をしている。

芸術(絵画や彫刻や映像やインスタレーションや音楽や写真など)や文学、映画、ドラマなどのイマジネーションの産物が果たしている役割は、誰もが普段出していない魂をむきだしにしてくれることだ。仮面を剥ぎ、王様は裸だと叫ぶことだ。王国において王様が裸だということが共通認識になると社会はすごく困るので、そんなことは本当はしてほしくない。もし人間に魂がなかったら、非常に効率のよい社会ができあがる。

だが残念ながら人間には魂というものがあり、皮を剥いたプラムのようにひりひりする欲望をぎらぎらさせている。

物語ができることは、その欲望をパッケージとして出すこと。物語の前では、誰もがオーディエンスになる。荒唐無稽な設定を「あ、そういうもんか。はいはい」と言って受け入れる。どんなに偉い人でも、恐いやくざでも物語の前では同等になる。

岡崎京子が言っていた「世界は、喪失 欠如 不在 消失に満ちているわ。そして暴力。それだけで世界はぱちんとはじけそうよ。でも思考とエクリチュールと愛だけがそれを救済することができるのよ。」っていうのは、村上春樹がねじまき鳥クロニクルで言ってた「自分が想像したいものをうまく強く想像することができれば、あなたはそれだけ現実から遠ざかることができる」ってことかと思った。人間の言葉は、書き言葉になったとたんに性質を変える。君が普段話していることと、石に刻み込むことでは意味が全く違うだろう。それと同じで、twitterでもfacebookでもブログでもテキストエディットでも書き記した時点で人間の意志が明確なかたちを得るのである。

本を開けば、その世界に逃避することができる。むきだしの世界に。芸術や物語にはそれができるのだ。この混沌とした世界において、暖かいシェルターに入り込むようなことが。

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