2008年1月15日火曜日

映画『夜と霧』 (1955年 フランス)


ヌーヴェル・ヴァーグ左岸派の映画作家、アラン・レネが制作したアウシュヴィッツ収容所のドキュメンタリー「夜と霧」をエスクァイアのごっつい上映会「進化する映画×リアリティ」にて鑑賞。上映前に柳下毅一郎氏のトークショーあり。柳下氏は「この世には、見た後に世界の見方を変えてしまうような映画がある」と語り、その一つがこの「夜と霧」だと言う。どう変わってしまうのかというと、人間というものの認識。いみじくも高度な文明を持つ人間が、これほどまでに残酷で血なまぐさい事が出来るという驚きだ。

「夜と霧」では55年当時の廃墟となったアウシュビッツ収容所ののどかな様子と、戦時中のナチス統制による収容所の惨状がそれぞれカラーとモノクロで交互に映し出される。この惨状があまりにショッキングな映像のためグロテスクなカルト映画としてセンセーショナルに噂されがちだ。確かに当時のフィルムは眼を覆いたくなるような映像ばかりである。プライドを傷つけるために裸で整列させられる骨と皮だけに痩せ衰えた人々、人体実験で爛れた足、ゴミの山のように積み上がる一糸まとわぬ死体、生首の山、ブルドーザーで土と混ぜられるかつて人間の肉体であったもの。

しかし監督のアラン・レネ、テクストのJ・ケイヨール、カメラのG・クロケとS・ヴィエルニ、ナレーションのミシェル・ブーケ、音楽のH・アイスラー、彼らがこの映画で伝えたいところは単なる残虐行為の記録ではない。「これは遠い国の特殊な状況ではない。我々のなかには、こういうことが出来る化け物が潜んでいる。」というメッセージを残して映画は終わる。

悲惨な状況にしばしばインサートされるドイツ軍の幹部たちの豊かな生活。スープも食べられずがりがりにやせ細っていく人たちの隣で、幹部たちは食事会を開き暖炉のある部屋で家族と過ごしていた。収容所の人員は労働力とみなされ、たくさんのドイツ企業が収容所に街を作り、なかには監獄まで用意されている収容所もあったという。


戦争に限らず極限状態に追い込まれると、人は理性をかなぐり捨てて殺しや盗みを働くかもしれない。しかし企業が利益を追求して街を作るのは社会性がなければできないことだ。収容所に関わった何万人もの人が、誰ひとりとしてこの異常な状況を変えることが出来なかったのだろうか?戦争の後、裁判にかけられた幹部たちは「命令に逆らえなかったのだから我々は無実だ」と主張した。それでは収容された人々を殺したのは一体誰なのか?

「シンドラーのリスト」「ビューティフルライフ」などアウシュビッツを題材にした映画は様々なものが制作されているが、起こった現象ではなくて引き起こしたものについて注意を向けさせてくれる映画はこの作品だけだと思う。澄まして文化的な生活を営むあなたの中にも私の中にも、無実の人の死体の上でピクニックができる化け物が潜んでいるかもしれない。

☆90点

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