2011年7月11日月曜日

ブラック・スワン

ダーレン・アロノフスキー監督作。監督の前作「レスラー」は全負け犬のバイブルで、吉祥寺バウスシアターで見て五リットルくらいの涙を流した。新作、超楽しみにしてたんですけど最高でした。『レスラー』と『ブラック・スワン』はもともとひとつの映画だったらしい。絶対無理ww

ブラックスワンは恐ろしい映画だった。ニナはバレリーナとして成功したいと思っている。さらにバレリーナとして挫折した母のプレッシャーを一身に背負っている。彼女は何がなんでも成功しなければならないのだ。しかし、あまりにも生真面目なために技術はあってもアーティストとしての魅力がないと言われる。ひたすら練習しても、ブレイクスルーすることができない。暗いトンネルをひたすら進んでいる。光が見えない。

そんな彼女にチャンスが舞い降りる。「白鳥の湖」の主役に抜擢されたのだ。バレエ団のフランス人監督トマスはニナに「感情を爆発させろ」という。ニナは技術はあるが才能を爆発させる術を知らない。技術は練習で身についても、言語では説明不可能なパフォーマンスの華々しさを会得するレッスンなどない。

ニナは追い詰められていく。これまで他の誰よりもコツコツ努力してきた自分なのだからできるはずだという自負。「どんなにがんばってもできない」と絶望するうちに、生まれつき才能を爆発させる術を知っている天衣無縫の新人のリリーが西海岸から現れる。彼女はニナがどうあがいても出来ないことをやすやすとやってのける。ニナは彼女に役を取られてしまうのではないかと恐怖する。

もう一人、ニナの絶望を加速させる人物がいる。年をとったプリマバレリーナのベスだ。かつてスターだった彼女は年を取ったという理由でバレエ団を追われる。ニナはいつかベスのようになってしまうのではないかと怯える。

「自分には才能がある。だから自分はできるはず。だけどできない」という絶望に、「絶対自分ができないことをやってのける人」を見せつけられ、「かつて憧れだったのに悲惨な末路を遂げた人」の亡霊に悩まされ、そのうえ「一番近い存在である母親がかつてできなかったことをやってのける」ことまで要求されたんじゃあ、パラノイアになるのも当たり前だ。要求されたっていうか自分の強迫観念から生まれたものではあるけれども。

このプレッシャーは、ニナが自己表現をしようとしているから生まれるものなのである。放棄してしまえば全ての苦しみから開放される。

だが、果たしてニナは自己表現の欲求から逃れることができるのだろうか?答えは絶対無理。自己実現したいという欲求は恐ろしいものだ。自己実現の欲求に囚われた人物は、自らを焼き尽くすしかない。そうすることでしか表現が成り立たないからである。

みんな同じだ。小心者で、化物のような自己実現欲求の業火に焼かれる如く苦しめられているのである。自己表現に限らなくても、上司に言われた仕事をこなしたりとか、家族の要望を叶えるとか、誰でもなにかしらの実現をしようとして日々格闘している。映画のラストは、そうしてなにがしかの達成のために自らを焼き尽くしていった人への賞賛に見えた。どんなに苦しくても、自分を犠牲にしても、美しく爆発するものがそこにある。アロノフスキー監督は小心者のために映画を作った。まったく優しいやつだぜと涙が止まらなかった。

中島敦の山月記では、あまりに「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を持つために、虎になってしまった男がいたのを思い出した。ニナは虎にはならず、黒い白鳥になった。

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