なにが君の しあわせ なにをして よろこぶ
わからないままおわる そんなのは いやだ!
と脳に餡子がつまったアンパンマンは歌うが、自分が根源的な部分で何を好きかという質問に答えられる人は多くない。というかほとんどいないんじゃないんだろうか。
好きなことをやり続ける、それは一見楽しそうに聞こえる。でも「好きなこと」って?
今流行ってるから、他の人がいいって言ってるから、これをやれば他人からほめられるから、らくちんだから、お金がもらえるから、慣れてるから。
そんな外部のファクターをとっぱらったところで、”ほんとうに”自分が好きなもの。それを明確に認識して、迷い無く向き合える人がどれだけいるんだろう。
自分のことは自分が一番わかるはず・・・だが、自分が好きなものは自分と向き合っていてはわからない。
わざわざ暖かく心地よい巣を捨て、嵐が吹き荒れる暗闇に飛び出していかなくてはならない。もちろん地図もない。だいたいの方向すらわからない。手当たり次第にドアを叩いてみても、そのドアが開くことは少なく、万が一中に入れたとしても自分が満足できるかは賭けだ。
それでも、たくさんのドアの前に破れているうちに傾向と対策が見えてくる。この形のドアはダメっぽいとか、なんだか北のほうのドアは当たりが多いとか(たいてい自分のカンが一番正しい)。
そうして見つけたお気に入りの場所は、自分が予想もしなかったところかもしれない。でも、そこにいるだけで、胸の奥から喜びが溢れて、そこが自分の求めた場所だったということがわかるだろう。山中でキノコを一本見つけるとその周りにたくさん生えているように、ひとつの気づきで愛すべきものが芋づる式に見つかっていく。まるでお菓子で出来た家のように、自分の好きなものがまわりに散りばめられているような。
そこにたどり着くことができたら、ほんとうに生まれた甲斐があったというものだ。
一番難しいのは、次のドアを叩く気力を保ち続けること。おまえは何千枚のドアを叩けるのか?とアンパンマンは問いかけてくる。
もちろんこの世にユートピアなんかないし、お菓子の家だって虫歯とか雨とか問題だらけだけど、その欠陥を愛することができればいいなと思う。
ていうか、わたしが最終的にアンパンマンに言いたいのは、自分の好きなことなんかわからなくても全然立派に生きて行くことができるということだ。
2 件のコメント:
ちょっと泣いた。
ぼくは 本当に恵まれたことに、22歳にして いくつもの お菓子の家 を見つけることが できている気がします。
そして 今もまだまだ 元気に新しいドアを叩き続けているんだけど、
それは 引っ越しとか別荘探し な訳ではなくて、
いまある愛すべき場所を 虫歯や雨で 失いたくなくて 守り抜きたくて その力を得るために 修行をしている という感覚です。
自分の得た大切なひとたちに 何がしてあげられるのか。
いまのあたしは もらってばかりなので。
産み出す力はないんだけど、せめて貿易商のように しあわせ を循環させられたらなあって思います。理想論ですが。
結局何が言いたいかって、
さいとうどん、あいしてるお!!!
・∀・
にゃは♪
いのちゃん
ごぶさたです~。いいなあ。ていうか、お菓子の家っていうよりおとぎの国っていう喩えのほうが適切な気がしてきたのでそのうちかきます。
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