2011年4月17日日曜日
日常とフィクション
そういえば、地震があった日から映画を一本も見ていない。いつまでも続くと思われた「終わりなき日常」が崩壊し、非日常が日常となった今、フィクションに何ができるのか?終わりなき日常のほうがむしろフィクションになってしまった。
西の方では、今も終わりなき日常が続いていると聞く。かつて、電力もガスも水道も無限であった。いくらでも電気を使った。電車は定刻どおりに動いていた。人は死ななかった。社会は発展していき、いつまでも豊かであった。住む家を追われる恐れもなかった。日本の製品は好意的に受け入れてくれると思っていた。存在意義を探すモラトリアムがリアリティを持っていた。いま東日本が見舞われている問題の大きさの前では、そんなものは霞んでしまう。
遠い遠いオマーンの国は、義援金は現地に届くのに時間がかかるから、被災地の工場に26億円分の浄水器を発注したという。あまりに素晴らしい支援に泣いた。これまでいた社会に復帰する実感が地元の人をすごく励ますだろう。転んだ人がいたので立ち上がるのを助けてあげた、みたいな、とてもシンプルで的確な感じがすごい。
みんな自分が何ができるかを考えている。でも「お前も何かやれ」って強制するのだけはやめたい。考えたくない人は全然考えなくていいと思う。バカの考え休むに似たりという言葉があるとおり、なんにもしない方がマシな場合も多いかもしれない。
これをきっかけに、共産主義とも資本主義とも違う、全体のことを考えられる社会ができたら、日本はほんとうに変われるのかもしれない。
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