2011年3月22日火曜日

宮沢賢治「告別」

宮沢賢治が花巻農学校の教師だったころ、音楽の才能を持つ生徒(沢里武治)がいました。沢里は音楽教育を受けておらず、楽譜も読めませんでしたが、いちど聴いた曲をオルガンで弾く事ができました。いわゆる絶対音感の持ち主だったようです。賢治も彼の才能を高く評価していました。

しかし、沢里は農家の息子だったため、いつかは音楽の道を諦めなければならない運命でした。昔の農家では、家業を捨てることなど許されなかったのです。わたしの祖父も農家の長男だったため、合格した大学に進学することが許されず、泣いて諦めたといいます。

沢里が卒業する年、賢治は農耕自炊で生きるほんとうの百姓になるために、学校を辞める決意をします。退職の際、沢里と生徒たち、そして自分に向けて書いた詩が、この「告別」です。

賢治は沢里の才能を褒めつつも、「お前くらいの年齢の人間であれば、一万人のうち5人くらいはお前と同じくらいの才能があるだろう」と客観的に突き放します。自分が唯一無二でないと知ったうえで、うつろいやすい才能を自らにとどめる努力をしつづけることができるか?人が持つ才能というものに定量があるとしたら、その才能の火を最後まで消さないものが真の芸術家であるというのです。

もし愛する女性が出来たら、彼女に感じる愛の喜びや光を音にしてほしいと賢治は言っています。楽器がなければ想像の楽器を弾けば良い。きっとあたたかく喜びに満ちた音が鳴らされることでしょう。青空文庫より

  三八四  告別
一九二五、一〇、二五、

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた

もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに

おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管
とをとった

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

0 件のコメント: