宗教の話をしよう。
わたしは母親がカトリックで、小さい頃から神様がどうのこうのという話を聞かされて育った。その結果、何の疑いもなく神様というものの存在を信じるようになった。宗教というのはそういうところから来るものでなければ、そんな目にも見えないものをどうやって信じるんだろう?
信じれば幸せが来るから信じることにする、ってまともな人間の思考として可能なのかしら?株を買って値段があがれば儲かります、というようなかんじ?映画「ラストデイズ」で「2000年以下の歴史しかない宗教は全部カルトだ」と言っていたのには納得した。いやでも新しい宗教にもそうでないものもあると思うし、ねずみ講とか周りの人を不幸にするやつみたいなのじゃなかったら、その人が良ければいいと思う。
といっても私は洗礼も受けていないし模範的な信者にはほど遠く、ミサは退屈極まりなくて爆睡してしまうから行かないし、聖書も全然興味なんか持てないので全く読んでいないけど、神様はいる、というかいない気がしない。
で、キリスト教といえば自己犠牲の精神で、有名なのが「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というやつだ。全く意味がわからない。右の頬を打たれたらグーで殴り返すべきじゃないか。キリストの最後は磔にされて死んでいくのだが、2000年経った今でもけんけんがくがくと議論されている事件がある。
それがキリストの弟子のひとり、「ユダ」さんの裏切り事件。キリストが磔になったのはこのユダさんがお金と引き換えにキリストを密告したからなんである。キリストはユダの裏切りで自分が超苦しんで死ぬのを知っていたが、それを防ぐことはせず、むしろ「行ってするべきことをしなさい」とか言って促しまでした。
これはさっぱり意味がわからない。知ってたなら止めればいいじゃん。ていうか、きっと弟子にする時点で「俺こいつのせいで死ぬんだな」ってわかってたんだろうから、そもそも弟子にしなきゃいいじゃん!!この件については未だに「ユダが死に導かされたのだから同情するべき」とか「悪魔にそそのかされたせい」とか、ああでもないこうでもないと議論がされている。
なのだが、なんかその気持ちわかる気がする。この世界には、いろいろなものが壮絶に絡んでる大きな流れみたいなものがある。ちょっと先が見えて、障害物をよけたとしても、きっとすぐに違う障害物が現れると思う。
それは渦に巻き込まれて抵抗するのが面倒、というのではなくて、全てを失うということをあらがわずに受け入れることで全てを手に入れるというか、調和するっていうか、なんか夜中で何書いてんのかよくわかんなくなってきたんですけど、キリストはユダを恨んだり憎んだり拒絶したりは絶対しないんだろうなと思った。
死んでも三日後に復活するから別にいいやとかじゃなくて、復活しなかったとしても恨まないと思う。それは諦めじゃなくて、人類愛とかでもなくって、何だろなー。誰も悪くないっていか、ほんとうに悪い人でもそれでも拒絶しない的な感じかなー。
ていうか、そうなっても恨まないような人じゃないと、2000年も前の一人のオッサンのことを何億人も覚えてる甲斐がないじゃないか。いなかったとしても別にいいから、そういう人がいたんだねえと心の隅っこに存在を感じることが神を信じるってことなんじゃないのかねえ、と思った。
神様というのは、生きている私たちには何にもしてくれない。でも、だからっていない訳じゃないと思う。地球はビッグバンで出来たし、人間は猿から進化してきたし、宇宙には星雲とかがあるだけだけど、どこかしらに神様とかっているんだと思う。リコリスがまずいと感じるのは私が生まれ育ったところの食生活の影響みたいに、いると言われたものはいると思わざるを得ないからかもしれないけど。
しかしそこにある流れにあらがわないって仏教とかヒンドゥー教とかみたいだから私の解釈は相当和風でしょうもないと思う。遠藤周作の「沈黙」では、あんまりにもひどい目に遭わされる隠れキリシタンたちが、救ってくれるはずの神様が奇跡を起こしてくれずに沈黙するばかり、と言って絶望していた。そんでお奉行とかが、「日本にはキリスト教は絶対に根付かない」とか言うんだよ。わたしも今はこんなのんきなことを言っているけど、そういう状況になったらいったいどうするんだろう。スコセッシの「沈黙」がまちどおしい。