2011年1月7日金曜日

ノルウェイの森


「ノルウェイの森」(トラン・アン・ユン)を見た。この映画について、村上隆が「映画だけが持ち得るグラマーを利用して何かを伝えようとしてる革命的作品。全部のシーンが挑発的であり、計算をしており、熟成している。」と絶賛中。「それにしても「インセプション」と「ノルウェイの森」の映画的グラマーには恐ろしく似たモノがある。海、波=自分自身への懐帰。雪=遠い世界、あちらの世界の暗喩。睡眠=死。こうした文法が僕の知らない所で映画人達が標榜しているのかと思うとゾクッとする。」と仰っているが、暗喩を用いることにいちいち驚いているのはこれまで火を見た事が無かった人みたいなのでやめたほうがいいと思うし、「インセプション」では心理学的なモチーフを使ってはいたけれど、ノルウェイの森との共通点はあまりない。

わたしが共感するのはむしろこちらのブログにあった「純愛の不可能性を証明する映画」説。

”つまり、ワタナベが本性を現していくうちに、「男って可愛い女なら誰でもいいんじゃない?」という誰もが薄っすらと思っていた純愛否定のパンドラの箱が開いてしまうのです。”

ああ、ほんとうにそうだ。菊地凛子の爆笑ものの不思議ちゃん演技とこの世にこんなに美しい女がいたのかと驚かされる水原希子では比べ物にならない。映画において、トランアンユンは意図的にワタナベをひどい男として描いているように見える。原作にあった、直子が「林には暗い穴があって、そこに落ちるイメージが頭から離れない」と話すくだりや、レイコさんとワタナベが直子の弔いで寝るという箇所を取り上げなかったことからも。

原作をおぼろげに覚えていたので把握できたけれど、登場人物の説明の無さっぷりも気になった。トランアンユンは「ストーリーよりもキャラクターの内面を表現することを重視した」と語っているが、あまりにも説明不足すぎる。

この映画に出てくる人で唯一好きだったのは長沢先輩の恋人のハツミさん。セックスと死にまみれた地獄絵図のような映画のなかで、彼女だけが高貴な魂として描かれていた。トランアンユンはもしかしたらアジアのミヒャエル・ハネケになるのかもしれない。

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